懐かしき海 11(第一章 10)

10.
 ここに着いてから初めての絵に描いたような快晴で、皆はしゃいでいたが、香澄は午前中ずっと不機嫌だった。それは傍目にも明らかだったらしく、永美が心配そうに顔を覗き込んで「何かしんどそうよ」と指摘すると、他のメンバーも皆同意した。
「海、大丈夫?」
 即座に「大丈夫」と答え、香澄は顔の表面から不機嫌の色を拭い取った。
実際、体調が悪いわけではなかったし、それで心配されるのは鬱陶しかった。平気だと請け合った手前、大股で元気よく歩くようにしたが、意識していないと自然と筋肉が緊張して仏頂面に戻ってしまう。昨夜の出来事に元気を全部吸い取られてしまったように思う。
 クラス全員が、ホテルでシュノーケリングの用具一式をあてがわれて、そのままバスに乗せられ、海岸へと連れて行かれた。先にウェットスーツを着込んできているので、自分も含めた同級生たちは、まるで腹に黄色いラインが入った黒っぽい魚が群れているみたいだった。
 灰色がかった角ばったかたちの幹に、色の薄い葉をぶら下げた灌木群と、これぞ南国、と主張しているかのような観光的な空の対比の中を進み、海へ続く遊歩道へ入る手前に、英語の案内板と並んで心肺蘇生法の説明書きが、色の掠れたイラスト付きで掲示されていた。この場で覚えられるはずもないが、一応上から下まで、ざっと目を走らせる。
このあと自分が溺れたら、誰かがこの処置を施してくれるのだろうか、とぼんやり思う。足がつくところまでしか行かないはずだが、母の言っていたとおり、足首くらいの深さの川でも溺れることはある。それに昨夜はずっと、鼻だけ水面から出してあっぷあっぷしているような、不安定な睡眠しか取れなくて、それも不機嫌の要因のひとつなのだ。
 うっかり漏らしてしまった言葉は、もう取り返しようがない。ひと晩じゅう、小刻みに目を覚ましては、二度と阿川とは口をきくまい、という八つ当たりじみた誓いと、明日こそ謡子に渡すのだ、という決意を交互に呪文のように唱えて、また浅い眠りに戻るということを繰り返していた。これが最後のチャンスなのだと思えて、追い詰められる感じがした。
 列の先頭あたりから、おお、と男子の歓声が一、二飛んだ。遊歩道の端が抉り取られたように沈んでおり、近づくにつれ、急勾配の下り階段が、岩場に挟まれた絵具を流したような海の切れ端へ、折れ曲がりながら続いているのが現れた。
 階段を降り切ったところはごつごつした岩場になっている。滑らかなクリーム色の砂浜を目指して、香澄たちは両生類の群れのように進んだ。前方の集団の中に阿川らしき背中を見つけると、恥ずかしさと苛立ちの入り混じった感情が内臓の内側を舐めた。生きている限り、彼を恨み続けるだろうと確かに思えて、自分の感情の理不尽さが空しかった。
 ゴムの被膜越しに砂を踏む。ひと足、ふた足。海だ。

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