懐かしき海

小説

懐かしき海 29(第二章 14)

14. 海は夕暮れに覆われ、その全体が湿っている。  潮が満ちはじめていて、朱の塊がのしかかってくる。  嘴状に張り出した磯が右手に影となって貼りついている。先端のぎざぎざの岩も、もうじき海中に没するだろう。 大気そのものが朱に染ま...
小説

懐かしき海 28(第二章 13)

13.  夕方が近づいてきたあたりから、かれらは自分たちが奇妙な興奮状態に捕らわれていることに気づいていた。 意味もなく笑いたくなり、足がそわそわと落ち着かず、それを抑えて何気ないふうを装うのがやっとという具合なのだ。心臓が暴れ、異常な...
小説

懐かしき海 27(第二章 12)

12.  ここがそうです、と案内すると、田丸の後ろを蟻の行列のように付いてきた連中は、一斉にカメラを構えた。そして、おお、そっくりそのままだ、まさしくここだ、などと囁き合い、海岸と道路を隔てる低い堤防に仁王立ちして、写真や映像を撮り、眺め...
小説

懐かしき海 26(第二章 11)

11.  香澄が海水に接触する。彼女の体の一部が種々の有機物や無機物を溶かした液を押し退けて滑り込む。 この瞬間それ自体には何の意味もない。彼女には何の神聖さもない。それでもその瞬間、やもめたちはわずかに動揺する。シュノーケルの先がゆら...
小説

懐かしき海 25(第二章 10)

10.  静かに夜が明けて、早々に田丸は目を覚ました。手早く身支度をすると、隣室を覗く。やもめたちは朝食をとっている。両側のベッドにきっちり同数だけ腰掛けて、残りは旅行用スーツケースを持ち込んでその上に座っている。かれらは揃って、プラスチ...
小説

懐かしき海 24(第二章 9)

9.  何ら特別ではない平凡な夕暮れがのろのろと這い去った。田丸はカーテンを開けたままにして、薄く張った雲に濾されてやや淡く濁ったその光が部屋に溢れてその後衰えるさまを存分に味わいながら、ベッドに腰掛けていた。定時の報告は何ごともなく、も...
小説

懐かしき海 23(第二章 8)

8.  沖縄に降り立った最初の日、田丸は記憶の中の痩せ細った幻に一日中つき纏われた。 天候はいまひとつだった。つまりは、あの夕暮れは今日の夕暮れではないということだ。やもめたちは相変わらず香澄に張りついている。 主幹も既に到着していた...
小説

懐かしき海 22(第二章 7)

7.  「終末派」たちの動向については、新しい体制が軌道に乗って以来、ほとんどかれらの意識に上ることはなかった。  連中は確固たる信念を持っていたわけではなく、ただ前主幹に引き摺られるかたちで道を踏み外したに過ぎない、というのがおおかた...
小説

懐かしき海 21(第二章 6)

6.  諍いごとが小波となってかれらの宇宙の表面を走り、わずかに搔き乱した間も、香澄は両親のもとで健やかな成長を続けていた。互いにいがみ合っている間柄であっても、両陣営とも香澄とその家族にだけは火の粉が降り注がないよう細心の注意を払い、援...
小説

懐かしき海 20(第二章 5)

5.  教団内での立場が危うくなってきてからは、鈴木氏は事務所や会館にいるよりも、自宅に籠ることが多くなった。叔父に言われて話し合いの打ち合わせをするため初めてひとりで訪問したとき、田丸は彼が、ひっそりとした住宅街の、小さくはないがお世辞...
タイトルとURLをコピーしました