懐かしき海 13(第一章 12)

12.
 体温計は至って正常な値を示していたが、香澄の「気分が悪い」という曖昧な訴えを、担任も保険医もあっさり受け入れた。罪悪感は感じなかった。実際、最悪な気分ではあった。ジャージに着替えて寝転んだまま友人たちを見送った。担任は、「無理するなよ」と体育教師らしい威勢のよい調子で声をかけてから、部屋を出て行った。
 ドアの錠が噛み合う音が聞こえるや否や、香澄は起き上がり、すっかり静まり返った室内を一周廻ると、すぐに佳絵の赤い大きな旅行鞄の、大きく開いた口の中から持ち手がにょろりとはみ出ているのが目に留まった。香澄の荷物のすぐ横に置いてあったから、せっかちな佳絵が自分の荷物の間違えて押し込んだのだろう。引っ張り出して、重みを確認する。今更、という気がした。
 瞼の裏で待機していた涙は、外へ流れるタイミングを逃して、頬骨の奥へ退避してしまっていた。正座のような恰好で座り、膝の上に手提げを載せて、香澄はしばらくの間、ぼんやりと中空を眺めていた。頭の側面がずきずきと痛み出す。仮病のはずが、本当に具合が悪くなってきたのかもしれなかった。
ベッドに這い上り、掛け布団を手繰り寄せて、きっちり顎の下まで引き上げた。目にかかった前髪を払いもせず、香澄は天井を凝視していた。このまま残りの旅行を棒に振ってもよいと思った。もうどうでもいい、というわけではないが、どうにもならないのだ。あんな恥ずかしい思いをしたあとで、もう一度謡子に近づくことなどできそうにない。
 水に入って随分体力を消耗したはずなのに、ちっとも眠くならなかった。目を閉じるのが寂しくて、死人のように目を見開いていた。冷蔵庫の発するブーン、という低い音が、沈黙を際立たせた。
 自分は優柔不断で、肝心なときに間が悪くて、役立たずで、何もできない。
 ブーン、という音が流れていく。目は開いているのに視界が裏返り、自分の頭の中が見えるような気がする。謡子の影だけがちらちら映る。目鼻は見えなくても彼女だと分かる。光が散らばる。世界の終わりみたいに、目の裏が燃えている。そしてまた謡子が現れる。今日潜った海の中に転がる岩や、揺れる海藻が現れる。そうしてまた光が目の裏を焼く。冷房は効いているのに、肌にうっすら汗の膜ができる。気持ち悪くてどうにかしたいのに、体を動かす力がない。
 何かと格闘しているみたいだ。全く無駄な戦いだと感じる。こんな目に合う謂れなどない。本来、する必要のないことだ。すべてがまるごと無駄だ。捨ててしまえばいい。そうするべきだ。
 香澄は身を起こし、そのままの勢いで立ち上がった。汗が引いていく。寒いくらいだ。頭の中がすっきり片付いている。まるで毒が抜けたみたいだ。ようやく決心がついたのだ、と自分でも分かった。
 手早く寝巻代わりの体操着を脱ぎ、七分丈のパンツに昨晩の出し物で着ただぼだぼのTシャツという、どうにか見られる格好に着替えると、手提げを脇に抱えて、部屋をあとにする。
 エレベーターの鏡に映る自分の顔は、目の周りが変に寂しく、仮面のようにのっぺりしていて、知らない人間のようだった。ねばついた液体の中のような感覚が皮膚にまとわりついていて、それを掻き分け掻き分け、泳ぐようにして屋外に出る。黄色みがかった、この旅行始まって以来一番苛烈な日差しが空気に絡め取られて、すべてに霞がかかっている。起き上がった拍子に何もかも裏表にひっくり返って、頭の中身が外へ溢れ出したみたいだ。
 無意識のうちに、足は駐車場のある方向に向いていた。空気は益々重たくなり、香澄は顎を前に突き出して口を半開きに、ふらふら進んだ。不意に左目を酷い痒みが襲い、汗の浮いた手の甲で擦る。一度擦り始めると際限なく痒みが湧いてくる。

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