懐かしき海 2(第一章 1)

第一章 海へ流れ着く

1.
 今日は充血がいつもよりひどいな、と鏡に向かって安藤香澄は呟いた。
 昨晩最後に風呂を使った父親が扉を開け放しにしていたらしく、水蒸気が凝って溶け落ちた跡が幾筋も残っている、まだらに曇った洗面所の鏡面に、粘っこい脂の絡みついた睫毛と毛細血管の浮いた白目が映る。視界全体に薄いベールがかかったようで、まるで水たまり越しに世界を覗き見ているみたいだ。
 とりあえずは顔に冷水を叩きつけ、目脂を洗い落とし、タオルで拭って目薬を注す。授業のときだけ使う度の足りない眼鏡をケースに入れて、それを通学用かばんのポケットに押し込む。
 太陽が潤んでいる。いつもより眩しく感じる。
 山の胴を貫くトンネルへと続く国道を渡って、年中排気ガスの匂いに包まれてはいるが日当たりはいい校舎に辿り着く。当たり前の道のりなのに、やけに体力が消耗する。左目が痒くてたまらない。
 校門をくぐったところで、同じクラスの津田永美に後ろから肩を叩かれた。
「おはよう」
 挨拶を交わしても、まだすんなり日常に入っていける気になれない。目の違和感のせいだ。
「まだ治らないんだね」
 永美が心配そうに言う。
「まだ治らないのよ」
 鸚鵡返しに応えると、その様子が可笑しかったらしく、はははは、と豪快な笑い方をしてから、すっと真剣な顔に戻り、「辛そう」とひとり言のように呟いた。
 二人は並んで三階の教室まで一段飛ばしで急ぐ。永美はホームルームが始まるまでのわずかな時間を惜しんで会話を続けようとしたが、結局時間切れでしぶしぶ中途で切り上げた。
 チャイムがなる直前に、阿川陽が教室に駆け込んできた。うっかりと目が合って、「よう」と挨拶される。自席で寛いでようやくまっとうに一日を始める心構えになっていたのに、変に動揺して返事もできなかった。相手はそんなことを気にするふうもなく、うるさい音を立ててかばんから筆記具を出している。
 また、左目の痒みがぶりかえしてきた。
 この時期にアレルギー反応が出るのは毎年のことだが、こんなにしつこく何週間も続くのは覚えがなかった。窓際の後ろから二番目というただでさえ気の散りやすい席で、無意識に目を擦りにかかる自分の手を抑えるのにかまけて、授業の内容はほとんど耳に入ってこなかった。いつもは几帳面に文字を詰めて書いているノートがいつの間にか途切れて、慌ててペンを握り直したが、ドイツとロシアの絶対主義についての説明は半分黒板から綺麗に拭き取られたところで、教師はその跡地に続きを書き始めていた。
 休み時間にはまた永美が席に来て、さっき邪魔が入って中断されたのとは全く違う話題を持ちかけてきた。それに、隣りの席の谷川佳絵が茶々を入れた。二人と一緒に笑っているとすこし気が紛れる。今は考えるのはやめよう。少なくとも、重要なことを考えるのは。
 昼休みには校庭で弁当を食べようということになり、永美と佳絵と連れ立って教室を出た。先週梅雨明け宣言が出されたばかりで、だいぶん気温は上がってきたが、湿気が少ない悪気のない暑さで、日向は清々しかった。
 校庭を三人でもつれ合うように歩いていたとき、佳絵が「あ、マキノ」と言った。
 売店のある校舎から、色素の薄い瞳と、瞳と同じ色の長い髪を陽光に透かして、牧野謡子が早足に移動しているのが視界に入った。
「一緒に食べない?」
 佳絵が叫んだ。謡子はちょっと微笑んで、片手をひらひら振りながら返事をした。
「また今度ね!」
 無駄なことだと知りながら、前を行く二人を盾にして身を隠しつつ、謡子がこちらの集団を見つけ、佳絵を認識し、問いかけを聞いて一瞬だけ考え、叫び返し、手を振ってまたすたすたと去っていく、その仕草、一挙手一投足を見詰めていた。多分謡子は自分に気づいただろう。
 ひと月前、あの唇から吐かれた言葉を思い出す。
「今度阿川にちょっかいかけたら殺してやる」

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