懐かしき海 1

 海は夕暮れに覆われ、その全体が湿っている。
 潮が満ちはじめていて、朱の塊がのしかかってくる。
 嘴状に張り出した磯が右手に影となって貼りついている。先端のぎざぎざの岩も、もうじき海中に没するだろう。
大気そのものが朱に染まっている。砂の一粒一粒に影と光が均等に宿っている。波が繰り返し砂地を洗う。
 と、それが浜ぎわで不規則な乱れ方をしているのに注意を引かれる。不連続に幾つかの流れに分かれ、ぶつかり合って白い飛沫を散らしている。
 波の乱れを辿って、少し遠くへ、沖の方へ注意を移していく。押しては返す波の動きが、影と光に塗り込められた枯れ木のごときものによって遮られている。輪郭から、人であることはおぼろけに理解される。だらりと垂れた腕、垂れかかった髪はぺったりと肩にまとわりつき、生気のない印象を与える。
 人影はしばらく立ち尽くしていたが、急に思い立ったようにずんずん沖へ進みはじめる。足場の悪さなど気にしていないようだ。波が泡立つ。少し風が出てきたようだ。うなだれた姿のまま、やけくそのような大股で人影は遠ざかる。
 人影が通り過ぎたあと、一時乱されていた水のうねりが修復されて、滑らかなひと続きに戻り、音こそ鳴らないものの、さわさわ、さわさわ、という具合に揺れながら、遥か遠近法の彼方まで続いている。
 膝の上まで浸かったところで、人影は歩みを止める。それから少し首を揺らし、決心がつきかねるとでもいうようにもう一、二歩進む。斜陽が目に入ったのか、さっと顔を背けて足を踏み直し、こちらから見て向かって左を向く。初めてその顔のかたちが現れる。子供らしく張った頬と、薄い唇。緊張したように肩が強張る。
 背後には太陽が、やけに大きく、水平線ぎりぎりの空に引っ掛かっている。直視しても不思議と眩しくは感じない。この太陽が恒星のひとつであるとは、とても信じがたい。平板で、つるりとしていて、まるで鏡のようだ。
 カスミは右の手を前方に伸ばす。ゆっくりと、肩よりも少し上まで。その手の先には光が宿っている。毒々しいほど濃い色を放つ落陽よりもわずかに淡く、もっと鋭い光。カスミは更に俯く。そして指を開き、光を解放する。
 光が落下する。物体が地球上で落下する際のごく一般的な物理法則に従って。光は細くなり、針のように空間を引っ掻いて、それから円形になり、最後に凸レンズのかたちになって、さわさわと律動するひと続きの海面に触れる、その瞬間。

 スクリーンはジジッという何かが焼け焦げたような音を立てて唐突に闇に戻った。しばらくは誰も口をきかなかった。空調の発するわずかな振動が、無言で真っ黒な画面を見詰める人と人との間を埋めていた。

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