9.
五人の男子生徒が舞台で急作りのコントを披露している間、かれらが属するクラスの残りはただ他人ごとのように眺めているだけだった。わずかに数人が、立ち上がって演技中の級友の名前を呼んでからかったりしていたが、大した助力にはなっていなかった。謡子も、所在なさげに自分たちの代表の笑いどころがよく分からない笑劇を鑑賞しているひとりだった。
終幕になり、皆一斉に拍手を送る。出演者たちは、頭を振りながら半笑いで席へ戻る。
これで、今日のスケジュールはお終いだった。誰が組んだのか知らないが、このプログラムの順序は明らかに失敗だ。まあ、所詮は余興だし、あとは後片付けをして、各々部屋に戻って明日に備えて寝るだけ。
解散となって皆がのんびりと感想を話し合っている間に、香澄は素早く立ち上がり、女物の衣装を身に着けたまま記念撮影に応じている一団を迂回し、並びのがたがたになったパイプ椅子やその間を立ち動く同級生たちを掻き分け掻き分け進んだ。
片手に手提げかばんの持ち手を巻きつけたうえで鷲掴みにして、最短距離を行こうとする。パイプ椅子が次々畳まれて、ホールの後ろに集められる。本当なら手伝わなくてはいけないのだが今回ばかりは仕方がない。両腕に畳んだ椅子を抱えて歩いていた男子の肘にぶつかり、他の誰かに蹴飛ばされ、よろめきながらも目算をつけたあたりに接近する。知った顔が何人かいる。けれども、彼女の姿は見当たらなかった。
香澄は踵を返し、今度は一目散に舞台の右手に開いているホールの出入口へ向かった。小走りで通路へ出て、二人三人の纏まりでエレベーターホールの方へ流れていくうしろ姿に目を配った。少なくとも、今見える範囲には、いない。
エレベーターの前まで行くが、そこの人溜まりの中にも謡子の姿はない。では、部屋まで行かないと……。
「おい」と突然すぐ近くで声がした。それが自分への呼びかけなのは分かったが、声の主がすぐには見つからず、きょろきょろしているうちに、「ここ、ここ」ともう一度低い声がして、香澄の真後ろから正面に阿川が回ってきた。
「えらく急いで出て行ったなあ、どうしたんだ」
反射的に香澄は仮面のように表情を押し固めた。笑顔を見せてはいけない。万が一それを謡子に見られたら、全部台無しだ。
「なんでも」
ちょうど上からエレベーターが戻ってきて、香澄は人群れに割り込んで無理やりに乗り込んだが、阿川は涼しい顔で隣りに並んできた。二人は一緒に上階へ持ち上げられ、同じ階に吐き出される。
ぎゅうぎゅう詰めのエレベータの中では二人とも口をきく余裕はなく、香澄は隙を見てさっさと逃げようと目論んでいたが、阿川はこれまた当たり前のように歩幅を合わせて、親しい口調で話しかけてくる。
「まだ俺たちは頑張った方だったよな」
舞台の真ん中で器用に踊っていた阿川は、照れ隠しなのか、わざとらしく上機嫌に振る舞っていた。
「結構他のクラスいい加減だったもんね」
思わず会話を繋いでしまい、香澄は、しまった、と心の中で舌打ちする。
「毒舌だなあ。でも、確かにひどかったな、最後のとか」
阿川は愉快そうに笑い、それから急に真剣な面持ちになった。
「ちょっと意見が聞きたいんだけど。毒舌で構わないから」
ちょうど自分の部屋の前に着いたところで、このまま会話を打ち切るべくドアノブを回したが、押しても引いても扉は動かない。思わずチッと小さく舌を鳴らす。どうやら班の他のメンバーは、まだ律儀に会場の後片付けをしているらしい。あいにくカードキーは佳絵が持っている。
「真面目な相談なんだ」
阿川はそう言って、片手をひらひらさせ、ついてくるよう促した。
「何」
刺々しい返事をしたものの、隠れようもなくなったので仕方なくついていく。非常階段の扉の向こうに二人で入る。戻ってきた生徒たちの第二波が騒ぐ声が籠って聞こえる。阿川は階段の手すりに片手を置いて、踵を後ろの段の側面にぐりぐりと擦りつけながら、言葉を探している様子だった。真正面に向き合うのが怖くて、香澄は壁に凭れかかってその踵の神経質な動きを側面から眺めていた。
高校の入学式のあと、数年ぶりに姿を目にしたときも、彼はこんな姿勢で廊下に立っていた。香澄は懐かしさに興奮して話しかけ、ちょうどそこに通りかかった謡子にもいつにない早口で紹介した。そのときはこんなことになるなんて、夢にも思っていなかった。
ちらと視線を上げると、かち合った阿川の目が親し気に和らぐ。
「お前、最近、牧野と話すか?」
心の中を読まれたような気がして、声が出ず、首を横に振るのが精いっぱいだった。
「そうか。何か最近、一緒にいるところ見かけなかったからさ」
阿川もどこか居心地悪そうで、盛んに自分の服の裾をまさぐっている。
「困ってることがあって。……安藤ならあいつのことよく知ってるだろ」
香澄の名字がすぐに出てこなかった様子で、「あ」の前に「か」の音が混じり込む。
「まあ……」
溜め息と言葉の中間のような、適当な返事を真に受けて、阿川の声のトーンが上がる。
「ずっと、あいつから、メールとか電話とかひっきりなしでさ。今は拒否してるけど、今度は家の前をうろつかれたりするようになって」
すぐには意味が呑み込めず、香澄は阿川の切羽詰まった表情の中の真意を探った。ああ、と煙みたいな声が出た。涙が出そうだった。
「いつから?」
「バイト辞めたあとかな、酷くなったのは。始まったのはその前からだけれど」
「バイトなんかやってたんだ」
阿川は今度は髪をいじり始めた。規則では一応、バイトは禁止だ。しかしそれは表向きのことで、実際には堂々と学校のすぐ近所の商店街で売り子をやっている同級生もいる。
時系列を戻して、阿川は悦明を続けた。彼のバイト先というのは釣り堀で、経営者と彼の父親が親しく、もう一年以上、土日だけ手伝いに行っていたらしい。だが、その間ずっと一緒に働いていたもう一人のアルバイトが、就職が決まったため辞めてしまい、そして代わりにやってきたのが、なぜか謡子だったのだ。
始めは順調で、何の問題もなかった。一年生の頃から香澄を通じて知り合っていたし、ときどきは香澄抜きで会話することもあった。顔見知りということで気も遣わなかったし、謡子はよく働いた。ところが、そのうちどうも変なことになっていった。
「自分で言うのもなんだけど、あいつ、俺のこと好きなのかな」と一層声を低くして阿川は訊いた。
「そうだと思うよ」
「ああ、まあ……、段々、そういう雰囲気が漂ってきて。ただ、俺としてはあいつを好きになることはないと思ったから、言ってきたら断ろうと思って、ずっと心の準備だけしてたんだ。でも、全然何も言ってこなくて、その癖どんどんべたべたしてくるようになってさ。バイト終わった後も毎日電話してくるし。用があってバイト休んだ時なんか、『何で勝手に休むの?』とか怒り出すしさ。勝手って、俺の勝手じゃんか。喧嘩になったけど、何か全然かみ合わねえの。宇宙人と言い合ってるみたいで、日本語分かってる?って感じ。それで、もう嫌になって、バイトも辞めたんだ、先月末に」
それから阿川は、謡子が働いた迷惑行為について、幾つも具体例を挙げて言い立てた。謡子は阿川が帰る道々に待ち伏せて並んで歩こうとし、無視しても一方的に話しかけ続け、手を握ろうとした。休み明けの月曜日に顔を合わせると、「昨日は朝早くからどこへ出かけてたの?」と笑顔で尋ねてきた。メールやSNSの類を全てブロックしたあとは、作ったばかりの正体不明のアカウントからメッセージが来た。郵便受けに切手の貼っていない手紙が入っていたことまであった。便箋には、親し気な口調で彼女の日常の些事が細かい字でびっしりと綴られていた。
恋人どうし毎日交わしているようなとりとめのない話題を、謡子はひとり芝居のように繰り広げていた。
「それで、そうすればいいのか分からなくて。こんなこと頼むのは申し訳ないんだけど、何とか安藤から言ってもらえないかな、と思ったんだが……」
香澄を上から覗き込むようにして、阿川が困った顔で息を継いだ。
「その様子じゃ、やっぱり前みたいな感じじゃないんだな。喧嘩中?」
香澄は頷く。
「仲直りの予定は?」
「ない」
落ち着きなく動いていた阿川の指が止まった。腕組みをし、かすかに唸った。
「そうか、仕方ないな。じゃあせめて、何かアドバイスを頼むよ」
「一回つきあってみれば」
え、と阿川が素っ頓狂な声を出す。
「どうせすぐ終わるんだから。そしたら、謡子ちゃん、もう二度と近づかなくなるよ。すっきりするでしょ?」
阿川の顔に不信感と、それを誤魔化そうとして作りかけた中途半端な笑いが広がった。
「それが一番、確実だと思うよ」
これまでの経験からすると、百パーセントの成功率。
真面目な答えなのだと念を押すように、彼の目をきちんと見る。
非常階段から出ると、生徒たちはもうすっかりそれぞれの部屋に収まっていて、並んだドアのそれぞれからくぐもった話し声が漏れ出てきていた。手提げを持ち直して、両手で胸の前に抱える。もう質問には答えたのだから、立ち去っていいはずだった。簡単な別れの言葉をかけようとして開いた口から、ひと続きの音声がおのずから編み上がってそろりとはい出てきた。
「阿川君とわたしが逆だったらいいのに」
香澄は早足で自室に戻った。ノックをすると、内側からけたけたと笑い声が転がってきてドアを開いてくれた。香澄はさっきの自分の言葉が阿川の耳まで届いていなければいい、と切に願っていた。
懐かしき海 10(第一章 9)
小説
コメント