懐かしき海 3(第一章 2)

2.
 香澄はもう長い間、マンションの階段を使っていない。三階まで上るのが億劫だというだけでなく、昼間でも薄暗いうえ、外のちょっとした物音が妙な反響の仕方をするのだ。子供がどこかで喧嘩して半泣きで叫んでいるのが、この中ではまるで海鳴りのようにおうおうおうと間延びした恐ろしい音に聞こえる。どこかの部屋で管理規定に反して飼われているものか、それともひっそり棲みついた野良なのか、猫の泣き声が、人語のように聞こえる。だからいつも、エレベーターを使う。
 大人に近づいた今の方が、かえって怖いものが多くなったと思う。ついこの間まで、この上下に細長い空間は主要な遊び場のひとつだった。最上の七階から、屋上に通じる施錠された扉。地下駐車場の入口。すべては空想の糧で、ごっこ遊びの磁場だった。
 当時、阿川は道を挟んですぐ向かいにあるひと回り小さいマンションの住人で、親どうしの交流があったこともあり、何とはなしにいつも一緒にいた。彼とは一緒にこの階段を昇り降りする仲で、空想の中でこの階段は天高く聳える塔となり、また巨大な蛇のはらわたにもなった。一度どういうわけか鍵が開いていて、屋上に出たことがあった。「脱出した!」と二人ではしゃぎ、ふやけた緑色の防水シートの一角を剥ぎ取って戦利品として持ち帰った。
 そのうちいつだったか、彼は家族とともに他所へ引っ越していった。他所といっても校区内のことだったので、学校へ行けば顔を合わせた。しかし、そのわずかの距離をおして香澄のところへ遊びに来るといったことはなかった。そういった労力は、新しい住所、新しい仲間との遊びを放棄してまでなされるほどの価値がないことを、香澄もよく理解していた。しばらくは少し寂しく感じたり、物足りなかったりしたものの、すぐに慣れた。そして忘れた。
 だから、香澄は謡子に分かってもらいたかった。阿川と自分はただ、この陰気な階段で繋がっているだけなのだと。今の香澄にとっては、過去のどの時点の阿川より、謡子の方が大切なのだと。邪魔をする意図など全くないのだと。
 だから、「陽くん」と呼ぶのはすぐにやめたし、向こうから話しかけてきても考えうる限りそっけない返事をするように努めた。もっとも阿川の方だって、結局は久しぶりに顔を合わせた昔馴染みと思い出話でもして懐かしさに浸りたいだけのようで、持ち出される話題はほとんど過去に属するものだった。
 香澄はそれらのことを説明した。説明は不得手だったが、それでも言葉を尽くしたつもりだった。
 しかし、彼女は分かってくれなかった。端から矛を収める気などさらさらないらしかった。幾ら言っても「あんたはわたしが好きなの知っててわざとやってるんだ」云々の主張を曲げない彼女にいい加減うんざりして、香澄はとうとう声を荒げた。「謡子ちゃんちょっとおかしいよ。被害妄想なんじゃない」
 すると、謡子は何か聞き取れない言葉でわあわあと怒鳴り返し、最後に喉にものの詰まったようなおかしな音を立てて、真っ赤な目で香澄を睨みつけたあと、わざとらしいため息混じりに「やっぱりあんたは偽善者だ」と言うと、ゆっくりと視線を逸らしていき、踵を返し、やけに落ち着いた足どりで遠ざかっていった。追いかけていく気にもなれなかった。中学入学のときに知り合って以来、謡子に対してこんなに腹を立てたのは初めてだった。
これまで謡子が同じ学校の先輩やら違う学校の生徒やらを、発作のように強烈な情熱で恋しては、その話しかしなくなり、なりふり構わず邁進して、ほどなく目指す相手を手に入れる過程に、香澄は一切口を挟んでこなかった。そういうときの彼女は、香澄からみると一時的にどこかが故障したように見えた。
 謡子は早口に、舌を転がすような喋り方をする。ところどころ子音が詰まって聞き取りにくいこともあるが、訊き返す間もなく話題が流れていくので、結局幾つかの単語は永遠に謎のままだが、それで何の支障も起きない。彼女は香澄の話すことを、ふんふんと頷きながら真剣に聞く。けれどもその聞き方というのが、重要そうな単語だけ飛び飛びに拾っているらしく、あとから確かめると細かいところは全部飛んで、それでも要点だけは押さえている。そうして、こちらも意識していなかったことの本質をずばり突いてきて、吃驚させられるのだ。
謡子は誰に対してもそうだった。一方的で、それでいて通じ合っている。恋する相手との間ではそれは更に極端で、謡子は向こうが例え無言でも、彼女にしか分からない信号のようなものを読み取るらしかった。
ことが巧く運んだことを報告するときの彼女の目は、縁に少し影が差したようで、頬は変に蒼白く、それでいて肌の奥から熱が滲み出ているのだった。香澄は冷めた気持ちで謡子のひと言ひと言に機械的に頷くだけだった。どうせ毎回、すぐに破綻するのだ。始まりや途中経過に比べて終わり方はあっさりしたもので、ときには謡子が何も言ってこないものだから、わざわざこちらから尋ねて初めて口を割ることもあった。謡子の相手に対する感情は、破局した途端に跡形もなく消えてなくなるようだった。
 同じ高校に進学して、一年目の冬が終わりに近づいた頃、謡子は当時かかりきりになっていた陸上部の卒業生との恋愛を突如放棄した。次に謡子が恋した相手は阿川だった。偶然同じ高校に進学してきて再会し、謡子にも幼馴染だと紹介してはいたが、それまでは特別興味を持っているようにも見えなかったというのに。
 何もかもが今までとは違う経過を辿った。考えてみれば、彼女が同い年に恋をするのは、香澄が知る限り初めてのことだった。始めはいつもどおり、ひたすら阿川について回っていた。これまでならば、不思議と相手は迷惑がることもなく適当に構っているうちにいつの間にか謡子に応える気になってしまうらしいのだが、阿川はそうはならなかった。
完全に調子が狂った謡子は、恋愛マニュアルでもなぞるように、明るくて気が利いて親しみやすい女の子を演じてはあれやこれやと誘い水をかけ、徒労に終わると香澄の前で癇癪を起して涙ぐんだ。本当にハウ・トゥー本でも読んだのかもしれない。そして、自分から好きだだのつきあってくれだの持ちかけることは、謡子の選択肢の中に始めからなかった。
 学年が上がってからはクラスが離れてしまったこともあり、謡子とは事実上絶好状態になってしまった。そのうえ悪いことに、阿川は香澄と同じクラスだった。彼は変わらず気軽に話しかけてきたが、必要最低限の返事しかしないように心がけた。
 ――エレベーターを降りて302号室の扉を開け、スニーカーを手を使わずに脱ぎ、鞄を放り出して居間のソファーの上に足を投げ出した。カーテン越しに西日が入りこんできてまだ充分に明るい。食卓の上に昨日母親が気紛れで買ってきた掌に載るくらい小さなサボテンが載っている。
そういえば昨晩夢を見たのだ。サボテンに霧吹きで水をやっていた。棘の先ひとつひとつに小さな滴がぶら下がって、星のように輝いていた。香澄は母親を呼んだ。おかあさーん、これ隠しておかなきゃいけないやつでしょ、おかあさーん。けれども誰も来なかった。返事もなかった。滴は落下し、食卓の木目の間にするりと滑り込んでいった。これは大事なことだ、と夢の中の香澄は思った。しっかりと記憶しておかなくちゃいけない。棘の先に新しい滴が生じ、その膨らみの面に誰かの右目が覗いた。幅広の二重瞼で、瞳はひたすら黒く、それ以外は漂白したように白かった。謡子の目だろうか、と香澄は訝った。微笑みかけてみると、迷惑そうにそれは言った。「おい、見るな。お前は見られる方だ」

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