8.
壁の向こうで、ずん、ずん、ずんという重低音のリズムがかすかに響いてくる。夕食のあとクラスごとの出し物をする予定になっていて、今、隣りの部屋で最後の打ち合わせをしているところなのだ。香澄たちのクラスは、少し前に流行ったアイドルの曲に合わせてダンスを披露することになっていた。とはいえ全員がステージに上がるわけにはいかないので、実際に踊るのは十人ほどだ。割合に目立ちたがりが多かったおかげで、あまり気が進まなかった香澄はあっさり補欠組に入ることができた。
出演者のひとりである佳絵も隣りへ行っている。今更こんなところで練習できるわけではないけれど、音楽を聴いて気分を盛り上げているのだろう。
踊らない者も一応、揃いの衣装を着て舞台袖で賑やかしをすることになっていた。もっとも、衣装と言っても、白または白っぽいTシャツを着ること、という指定なので、皆思い思いのデザインのものを身に着けている。
集合時間までにはまだ時間がある。膝を抱えて、ベッドの上に俯せに寝転がっている永美の癖のある後ろ髪を眺めている。その他の同室のクラスメイトもそれぞれ部屋の隅に陣取って、携帯電話を眺めている。手提げの中のビニール袋の中の紙袋の中には、謡子の化粧道具が厳然として存在している。
「ちょっと散歩してくる」と言って、香澄は部屋を出た。スリッパを穿いて廊下に出る。抑え気味の照明の中、方々の部屋から笑い声が漏れ聞こえる。部屋から出てきた別のクラスの連中とぶつかりそうになる。誘導灯の下を通り抜け、非常階段へ退避する。扉を閉じると途端に空気が振動を止めて、耳の奥がつんと鳴ったあと沈黙した。
今日の残りと、明日丸一日と、明後日の午前中いっぱい。もう半分ほどの日程しか残っていない。定められたとおりに行動し、見聞きして、大声を出したり写真を撮ったり、楽しかったような気もするが、事前の期待に見合うほどのものかというと、香澄にはよく分からなかった。
ただ、確実に思い出にはなるだろう。家に帰って、汗で汚れた服を洗濯して、写真を整理して、そうして何年か経って、不意にテレビにどこかの風景が映ったりしたとき、きっと今日のことは蘇るだろう。もっと鮮やかで、整然としたかたちに加工されて。
その頃にはこのもどかしい気分は忘れられているか、覚えていたとしても、思春期特有の過敏さとして軽んじるべきものになっているかもしれない。親や教師たちが今、そうしているように。冗談じゃない。こっちは生きるか死ぬかなのだ。思い出になるときまで、そんな途方もない未来まで、無事でいられる保証もないのだ。
香澄は自分が無意識のうちに階段を上っているのに気づいた。スリッパが脱げないように足の指を丸めてつま先に体重をかけている。もう踊り場まで着いた。上へ行っても、どうせ同じような客室が続いているだけだ。
踊り場で壁に凭れかかって、香澄は当面の心配ごとを思い返した。できれば忘れたままでいたかったのだけれど、そういうわけにもいかない。謡子の化粧道具。パウダーとパフ、眉墨ペンシル、サーモンピンクのチーク、小さな鏡、アイライナー。中身は覗いていないけれど、想像はできる。気を晴らす方法をひとつしかない。手放せばいい。自分の荷物に混ぜたりしたから、気持ちの中にも混ざり込むのだ。
でも、今更教師に渡したりしたら、不自然かもしれない。盗んだと思われないだろうか。先生はきっと誰が拾ってとっておいたか、謡子に言うだろう。謡子はひとつかふたつの大切な、もしかしたらわざわざデパートで高い金を出して買った化粧品が、なくなっているのに気づくかもしれない。そんな事実がなくても、気づくのだ。謡子は今や香澄のこととなると、自分の記憶すらでっち上げかねなかった。
なぜ拾ってすぐにどうにかしなかったのか、今更悔やんでも遅いが、そればかり考えてしまう。だって、すぐ部屋に帰らなくちゃいけなかったし、当の謡子本人が突然戻ってきて動揺してしまったし、先生はひとりも見当たらなかったし。同じ言い訳を自分に対して、ずっと繰り返している。
もう戻らないといけないのではないか、と思い当たって、言い訳の循環が断ち切られた。階段を駆け下りるとスリッパが脱げたので手に持ったまま、非常階段から出た。すると、最も簡単な解決法を思いついた。
本人に直接返せばいいのだ。何も教師を介する必要はない。ごくごく当たり前の、常識的な手順を踏めばいい。大抵のことは、落ち着いて順序どおりやれば巧くいくものだ。出し物の最中に本人を捕まえるか、誰かに謡子の部屋を訊くかして、「これ昨日落としたんじゃない?」とか言って笑顔で差し出す。食堂の外ですれ違ったとき、謡子は明らかにこちらに気づいていなかったし、誰かを間に挟むよりは、誤魔化しや悪意を疑われにくいだろうし。
彼女はきっとむすっとした表情でひったくるように袋を掴み、そのまま行ってしまうだろう。もしくは、やはり何か理由をつけて香澄を責めるかもしれない。だけど、もしかしたら。
ありがとうくらいは言ってくれるかもしれない。それから、ついでにひと言ふた言、口をきいてくれるかもしれない。彼女が既に阿川を捕まえてしまっているという推測が正しいなら、自分に対する敵意も少しは緩んでいるかもしれない。罵詈雑言でも嫌味でもない言葉を聞けるかもしれない。もしかしたら、これはチャンスなのかもしれない。
都合の良い想像に、香澄の心は弾んだ。
――ともかく、今日のうちにあれは謡子に返そう。
心を決めてしまうと、憑き物が落ちたように心持ちが晴れた。まだ音楽のリズムは遠くで鳴り続けているようだ。スリッパを履き直す。そうしてよろよろと歩き始めたとき、誰かがすれ違った。明らかに大人だったので、同級生ではない。かといって、教師でもなさそうだった。ただ、そこにいるのは自然なことに思えた。誰だろう、とも思わなかった。ただ、あの人だ、と思った。もしくはあの人たち。いつもいる人。どこにでもいる人だから、ここにいるのも当たり前なのだと香澄は感じた。
懐かしき海 9(第一章 8)
小説
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