懐かしき海 12(第一章 11)

11.
 ホテルに戻ってくると、ちょうど別行動をしていたクラスのバスも戻ってきたところだった。午後からはスケジュールが入れ替わるので、かれらはひと休みしてからシュノーケリングに出かけるはずだ。
ホテルのぐるりに熱帯らしく見えるように植えられている植物の葉が風に擦り合わされて、肌に残った潮の匂いが掻き立てられた。ビーチサンダルでぺたぺた歩いている同級生たちの向こうに、バスから降りてきた背の高い後ろ姿を見つけて、考えるより先に足が勝手に動き出した。
 今日は髪をひとつに纏めている。見覚えのあるTシャツ。去年の夏は、二人でよく遊びに出かけた。あのシャツもそのとき着ていたのだと思う。隣りにいる同じ班の女子の持っている何かのパンフレットを覗き込んで、弾んだ声を出している。
 まだその会話の内容がはっきり聞き取れないほどの距離で、彼女が体をこちらへ向け、香澄を認識する。はっきりとした拒否が目つきから読み取れたが、足を止めることができない。体当たりでもするように突進する。謡子と話していた相手が、不思議そうにウェットスーツを着込んだ闖入者を見遣る。
 元親友の、やたらとくっきりした目鼻立ちがあとほんの数歩の距離にまで迫ると、急に恐怖心が湧いてきて香澄は立ちすくんだ。さっきまでとは逆に、足がちっとも進まなくなる。無理な急ブレーキのせいで右のサンダルの底が折れ曲がって足裏の下に引っかかっている。
「何?」
 数か月ぶりに自分に対して向けられた言葉だ。肩にかけたままのタオルの湿り気がにわかに気にかかり始めて、乱暴に毟り取る。謡子は気味悪そうなしかめっ面のまま、体の向きを変え、仲間のあとを追おうとする。
 肝心なものが今手もとにないことに、そのとき初めて思い出して香澄は愕然とした。謡子の化粧道具は、香澄たちの班の部屋の、手提げの中のビニール袋の中の紙袋の中に置いてけぼりだ。
「謡子ちゃん」
 呼びかけたものの、あとが続かない。あれだけ頭の中で何通りもシュミレーションしてきたというのに。
「だから何よ」
 あからさまに苛立った声で、謡子が言う。途端、散々蓄積されてきた込み合った感情が爆発した。自分の表情がぐしゃりと崩れるのが分かる。涙の前兆がせり上がってくる。
「ちょっと待ってて。すぐ取ってくるから。戻るまで待ってて。すぐだから」
 うまく回らない舌でつっかえつっかえそう言うと、香澄は返事も待たずに踵を返して一目散にホテルの玄関の方へと駆けた。「何あれ」といかにも呆れたという調子の謡子の声が聞こえて、心臓のすぐ近くに杭が打ち込まれたような痛みが走る。
 ホテルの豪華なフロントから、エレベーター。やたらに長く感じられる上昇の時間を、手の甲に爪の跡を付けながら耐えて、やっとのことで部屋に転げ込む。永美がもう着替えを終えたさっぱりした姿でドライヤーを使っていて、おう、とか何とか挨拶してきた。昨晩自分が使っていたベッドは綺麗に整えられていて、シーツも掛布団も洗濯糊の匂いがした。ベッドの上にまとめて置いていた香澄の荷物は、部屋の隅に移動されていた。謡子の化粧道具を入れた手提げは見当たらなかった。血の気が引いて、全身の力が抜けるようだった。
 だがすぐに、まさか捨てられはしまい、と思い直したが、探そうにも、ベッドの上で胡坐をかいて前髪を撫でつけている永美が気になってできなかった。何を探しているのか訊かれるのも、ましてやこうなったいきさつを説明するはめに陥るのも、絶対に嫌だった。
 仕方なく自分のベッドの端に腰掛けて、拳を膝の上で握り締め、石のように動かずにいた。刻一刻、時間が流れ落ちていく。謡子に対して挽回する機会が確実に失われていく。彼女の姿が、声が、次第に遠く小さくなっていくようで、また泣きたくなった。
 そうやって着替えもせずにいると、永美や、部屋に戻ってきた他のメンバーが、おずおずと体調が悪いのかと尋ねてきた。何も答えずにいるとそれを肯定の合図ととったらしく、昼食は食べられそうか、午後からの予定をこなせそうか、と続けざまに質問が飛んできた。
「行きたくない」
 正直に答えると、友人たちは顔を見合わせ、声を落としてこの突然のトラブルの対処法について話し合い始めた。そんなつもりはなかったのだが、もうこの際便乗してしまおうという気が湧いてきて、香澄はいかにも痛むというふうに、こめかみを押さえてみせた。

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