小説

懐かしき海 20(第二章 5)

5.  教団内での立場が危うくなってきてからは、鈴木氏は事務所や会館にいるよりも、自宅に籠ることが多くなった。叔父に言われて話し合いの打ち合わせをするため初めてひとりで訪問したとき、田丸は彼が、ひっそりとした住宅街の、小さくはないがお世辞...

ピアノ

ある夜がやってきたとき ピアノを弾くことができ その代償として 子供時代は切り整えられた かつての教訓話が 胸に覆い被さり 戒めにたがうことは もう二度とできない
小説

懐かしき海 19(第二章 4)

4.  「カスミ」の同定作業は、友子が残した映像のごく細部から、頼りない手がかりをひとつひとつ拾い集めることから始まった。写り込んでいる広告や、見慣れない機械、服装などから、どうやら「おおもとさま」の訪れはまだ先の時代であることは確実と言...

飢餓

米の袋を担いで帰る 夕飯どきに間に合わないと死人が出る 少なくとも二人 悪ければ三人 あるいは浴槽いっぱいに
小説

懐かしき海 18(第二章 3)

3.  かれらがかれらとして歴史に現れたのは、そう古いことではなかった。将棋の駒が弾かれるようにお上が入れ替わった時分、大勢の小さな神様が小さな教祖様の口を借りて、それぞれの処世術を説き回っていた中に、かれらが奉じるかれらの神も混じってい...

雨の糸を透かして白光が見える 港からの遠吠えと 痛みのない身体とが 手に届きそうなくらいに近く 終日降るならば 窓の鉄格子に絡まるがいい 複雑さは私の慰みだから 眠気を誘う縺れのまたもつれ
小説

懐かしき海 17(第二章 2)

2. 「まだ捨てるなよ。大きいのはひと纏めに」  講堂の後始末がひとまず完了したのを横目で確認しながら、田丸は注意を飛ばした。 「明日引き取りに来てもらう」 「垂れ幕はどうしましょう?」  細長い布地を袈裟のように巻きつけたうえ、...

疲労

気分が良くなりたいから 砂糖をまぶした寒天を食べる 血の色にどう細工しても こんなに濃い桃色にはならない 桃色の中で泳ぐ 泳ぎ、泳ぎ渡って向こう岸で 浸した足がさらさらと溶け滲む
小説

懐かしき海 16(第二章 1)

第2章 海より流れ着く 1.  映写機が動きを止め、スクリーンは真っ白に戻り、天井の照明の幾つかが点灯したものの、会場はまだ黄昏どきの薄暗さのままだった。  二列に並べ置かれた長机それぞれに三、四人が割り当てられていたが、それでも...

若気の至り

手首から熱が抜けてゆき ほどなく私は冷たく凝る 痛みさえ感じなければ そのときが明日でも構わない などと大見えを切る愚かさよ
タイトルとURLをコピーしました