懐かしき海 4(第一章 3)

3.
 夏休みが終わってから、香澄は毎朝、匂いの強い消臭スプレーを腋だけでなく制服のあちこちに吹きつけてから家を出るようになった。仲間うちでどうもお互いの体がうっすらと臭いという話になり、急に皆が揃って気をつけ始めたのだ。永美はコンビニで売っている安い香水を使っていた。臭いは気にならなくなったが、自分の発する香りで嗅覚が麻痺しただけのような気もした。目のアレルギーは収まったが、今度は鼻の奥がむず痒かった。けれども、臭いと思われるよりはましだった。
 ときには、今日は誰とも会いたくないと思いながら校門を潜る日もなくはなかったものの、おおかたは順調だった。無視し続けたのが功を奏したのか、近ごろは阿川から話しかけてくることもなくなった。だからといって謡子が自分を許すとは思えなかったが、少なくともこれ以上機嫌を損ねることはないだろうと安心できた。
 まだまだ蒸し暑いのに、試験明けの体育の授業では学校の周囲を三周も走らされた。途中からうんざりしてきて、最後の一周はずっと歩いて通した。傍目にも不貞腐れた様子だったのだろう、校門のきわで待っていた担当教員は「大丈夫か」のひと言もかけなかった。更衣室に戻ってからスプレーを大量に使ったが、それでも全身の皮膚に汗の成分が凝縮して貼りついているように思えた。
 その日の放課後、学校から出る前にトイレに入って用を足し終え、個室のドアを押し開けようとしたとき、隙間から軟らかそうな長い髪の後ろ姿が見えた。咄嗟にドアを戻して、音を立てないようにそっともう一度鍵をかけた。恐らく気づかれてはいない。奥の壁に背中を預けて息を殺し、相手が出ていくのを待った。そもそも、自分がここにいるのは別段不自然なことではない。むしろ、こうして隠れなければいけないのがおかしいのだ。分かっていても、今彼女の前に姿を見せるのは途方もない行為に思えた。目が合ったら最後息が止まるような気さえした。
 ひたすら待っていても外のカタカタ、カタカタ、という音はなかなか止まなかった。さっき一瞬見たとき、洗面台の前でやや俯き気味に手もとを探っていたのと併せて考えると、化粧をしているのかもしれないと思い当たった。謡子はいつも意中の相手といよいよ個人的な関係を結ぶ段になると、近ごろの流行からするとむしろ控えめに思える細工を顔面に施した。もちろん学校ではいつも素顔で通していたが、もしそのまま授業に出ても、鈍い教師なら気づかないだろうと思われるほどのものだった。中学の頃からだ。
 もしかしたら、謡子はついに阿川を捕まえたのかもしれない。香澄が見る限りそんな兆候はなかったように思うけれど、それ言うなら今までだって、謡子と男たちのとのことに関しては勘が働いたためしがないのだ。
 ようやく外から、がちゃがちゃと道具をかき集める音がして、気配は去っていった。それでも用心して香澄は一、二分はそこを動かなかった。
 足音を忍ばせて外へ出る。謡子が向かい合っていた鏡の前に立つと、目の高さあたりの汚れがきれいに円く拭き取られているのに気づいた。多分謡子の身長なら、前屈みになって細かいところを整えるのにちょうどいい高さだ。目を凝らすと、彼女の息に混じって付着したららしい微細な水の玉が、表面にまだところどころ残っていた。
 香澄は、謡子が校門を出て、すぐ近くのどこかで阿川と待ち合わせ、手を握り合って、勝ち誇った笑みを浮かべていると想像した。阿川もまんざらではなさそうで、謡子の顔を覗き込み、他愛のない話題を途切れなく繋ごうと努力しているのだ。その光景は、特に香澄を幸せにはしなかったし、謡子のためにも幸せなことだとは思えなかった。ただ、それがたった今現実に起こっているかもしれないという事実は、この数か月で香澄が感じた唯一の希望、あるいはそれに限りなく近いかたちのものだった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました