懐かしき海 8(第一章 7)

7.
「おはよう」と朝一番に声をかけてきたのは佳絵だった。髪の毛がべったり寝ていて、いつもはくっきり二重の瞼が奥二重になっていた。「おはよう」と布団から這い出しながら返事をした。「ああ、よく泳いだ」と思わず口走りそうになった。どこからそんな言葉が出てきたのものか全く分からなかったが、実際プールを何往復もしたあとのように筋肉が重かった。
 冷たい水を顔面にかけると、留め忘れた前髪の先からぼたぼたと水滴が落ちる。マリンスポーツは三日目の予定に組み込まれている。夢の中でひと足先に楽しんでいたのかもしれない。
 香澄と佳絵が歯磨きをしたり髪を梳かしたりしている間ずっと、薄い毛布を蓑虫のように体に巻きつけてベッドの上でもぞもぞ動いていた残りの三人は、一度起き上がってしまうと神業的な手際の良さで服を着替え、水と備えつけのドライヤーだけで完璧に髪型を整えてしまった。二重に戻った佳絵はまだぼんやりしていたものの、何とか見られる格好になって、壁に凭れかかっていた。
 香澄は、ぎゅうぎゅう詰めにしたリュックサックの底から新しい靴下を発掘するのに手間取っていた。下着を入れた袋を無理やり引っ張り出そうとすると、財布や日焼け止めクリームや折り畳んだ「修学旅行のしおり」が引き摺られて飛び出してきた。「ごめん、先に行ってて」と上ずった声で告げると、「落ち着いてゆっくりやりなよ」と言い残して彼女たちは出て行った。
 ひとりになると、香澄はすぐに靴下の入った袋を見つけることができた。その中から白い一対を選び出して足に被せ、床に散らばった雑多な品を順々にリュックサックの中に仕舞っていく。きれいに、もとのとおりに収まった。大抵のことはきちんと手順どおりやれば大丈夫なのだ。急に気持ちがしゃんとして、素早く戸締りをすると、急ぎ足で食堂へ向かった。
 食堂の狭い入口の前で、同級生たちが詰まって団子になっている間をすり抜けて中に入る。永美が腕を大きく振って合図しているのが目に入った。「ごめん」と皆に謝りながら席に着く。
 朝食はバイキング方式だった。朝一番は食欲の出ない性質の香澄は、サラダとパンと果物を口に入れるのがやっとだった。皆思い思い、テーブルの間を行ったり来たり、食事というより、ほとんど会話を食べているような様子で騒いでいた。まるでお喋りすることがこの旅行の目的だと言わんばかり。
 食後のコーヒーを取りに行くとき、謡子とすれ違った。お互い目を合わせようとすらしなかった。席に戻った彼女を盗み見ると、器にたっぷり持ったフルーツミックスを黙々と口に運んでいる様子だった。
 いったん部屋に引き上げるという段になって、もう一度謡子の姿を探した。彼女の班は既に引き上げたらしくテーブルには誰もいなかったが、席の下に、小さな袋が置かれているのに目が留まった。他に誰も気づいていないようだったので、出際に香澄はそれを拾い上げてみた。防水加工がなされた、百貨店のロゴが入った紙袋だった。中を覗いてみると、折り畳まれたハンカチと、何かの紙切れと、薄桃色のポーチが入っていた。見覚えがあるものだった。謡子はいつもこれに化粧品を入れて、鞄の奥に忍ばせていたのだ。
 何食わぬ顔で手に提げて、他の三人のあとをついていく。頭の中は混沌だった。謡子の持ち物を今自分が持っているというだけで、良くないことをしているように思えた。それどころか、とんでもない悪事を働いているのだという気さえした。
 先生に誰かの落とし物だと言って渡してしまえば済むことだと思い直したところで、廊下の向こうのエレベーターホールから、謡子その人が慌てた様子で走り出してきた。咄嗟に香澄は視線を逸らし、袋を腹に圧しつけて、腕で覆った。謡子はこちらに目もくれずにすれ違い、食堂の方へ駆けていく。「マキノ、どうしたんだろ」と佳絵が呟く。香澄は袋を更に強く圧しつける。
 部屋に戻ってからすぐに、予備に持ってきた白いビニール袋の中にそれを隠した。拾うんじゃなかった、と胸がどんより曇った。リュックサックの中にこれ以上ものを詰めるのは無理だったので、財布とタオル、水筒、その他課外学習に必要なものと一緒に、持ち歩き用の手提げの方にビニール袋ごと突っ込んだ。
 二日目の行程が始まった。

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