懐かしき海 5(第一章 4)

4.
 修学旅行の行き先は、入学直後のアンケートに基づいて決められたものだった。
 自分は何と書いたか、確か適当に韓国だとか書いたような気がする。
 結局多数の意見を汲んで沖縄に決定されると、少しの間だけ教室が色めき立った。当時は同じクラスだった謡子も珍しくにこにこしていた。沖縄とはそんなに良いものだろうか。青い海、白い砂浜。そんなに素晴らしいものなのだろうか。香澄にはどうもその興奮が理解できなかった。
 出発が二週間後に迫ってくると、再び落ち着かない空気が校舎を満たした。グループ活動の班分けや下調べ、注意書きの羅列されたプリント、史跡やホテルや海の写真を眺めているうちに、香澄も段々とその気になってきた。作り物のような美しい海。想像の中でそこに自分の姿を置いてみても、あまりも不釣り合いで冗談のように思えた。それが現実になったとき、どういう気分になるものか、思い描こうとしてもどんどん風景が書き割りのようにスカスカになっていくだけだった。香澄は早くその気分が知りたかった。
まだまだ日数に余裕があるというのに、荷物を効率よく詰め込む方法を模索していると「気が早すぎる」と両親に笑われた。「小学校の遠足のときもそんなにそわそわしてなかったのにね、でも楽しみよね、沖縄」そう言われると何だか恥ずかしく、「別にそんなでも」と仏頂面で言い返した。
 とはいえ学校では誰憚ることなく浮かれた会話に参加することができた。さして内容のない、聞きかじりの情報を抑揚をつけた声で交換し合った。
残暑がようやく終わって、帰り道も心地よかった。まだ十二分に昼の色のままの光が建物越しに坂道を照らしていて、家に帰るのが勿体なく思えた。マンションのすぐ手前の公園の植え込みの縁に尻を引っ掛けてペットボトルの紅茶をちびちび飲みながら、ベンチで休んでいる人の吐き出す白い煙を見ていた。退屈だったが、焦燥も怒りもなかった。毎日をごく普通に過ごせていること、ときどきは楽しく思えることさえあることが不思議だったが、そのうち当たり前になるんだろう、とぼんやり考えた。本来これが当たり前だったのだ。
 あれ以来、謡子の顔を見ていない。いや、視界に入っているのかもしれないが、あえてそれと意識することがない。少し前までは、どんなに遠くからでも、その頭のかたち、後ろ姿、膝の下できゅっと肉が締まった脚を見つけてしまったし、十人がいっぺんに喋っているときでも、やや低くて眠たいように聞こえるあの声を聞き分けてしまっていたのに。
 でも、きっと今幸せな顔をしているんだろう、と香澄は想像していた。そうあってほしかった。どうせいつものとおり、長続きはしないとしても。
 ともかく今は、沖縄だ。白い砂浜だ。紺碧の海だ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました