5.
「本当、気をつけてよ。羽目外さないでね」
母親はしつこいくらい何度も念を押した。
「大丈夫だって」
「ダイビングあるんでしょ。先生の言うことよく聞いて、横着しないようにね」
「浅いところでちょっと潜るだけだって。ダイビングじゃなくって、あれ何ていうんだっけ、管で空気吸うやつ」
「シュノーケル?」
「そうそう」
普段比較的放任主義で友達との付き合いや小遣いの使い道にも口を出してこないのに、三泊四日とはいえ、終始集団で行動する学校行事についてこんなに心配されるのは不思議だった。ただ、確かに考えてみれば、親元を離れた場所でひとりで眠るのは生まれて初めてのことだ。友達の家に泊まりに行ったり、親戚のところへひとりで旅行したりといったことさえ一度もない。
思えば、随分といい子ちゃんで過ごしてきたものだ。一度くらい家出でもしてみればよかったかもしれない。けれども、そういう衝動的な行動に出るほどの動機が香澄にはない。ときには親に腹を立てることはあったとしても、この家も、二人の保護者も、ずっと安心できる居場所であり続けていた。同級生がまれに漏らすような、深刻な不和や無理解とは無縁で、それが香澄の当たり前だった。
「お母さん、心配し過ぎだよ。ちょっと大袈裟。子離れしたら」冗談交じりに言うと、「水は怖いのよ」と、神妙な声で返ってきた。
「浅くても関係ない。水の中では人間、絶対生きられないんだから。こんな深さの川で溺れる子もいるのよ」
母親は掌を水平にして、テーブルの上数十センチのところを擦るように動かした。
「そりゃあね」
「香澄、泳げないでしょ」
「泳げるよ。お母さん、情報が古いよ」
実際、香澄ができるのは犬掻きとクロールの中間のような独創的な泳法ではあったが、泳げるのは嘘ではない。不格好ではあるものの香澄なりに苦心して編み出した方法で、動きはのろいが沈むことはない。
「香澄、海久しぶりだから、楽しみだろ」
パジャマ姿で、風呂から上がって髪も碌に乾かさず、テレビの前に陣取っていた父親が口を挟んできた。
「そうだね、そういえば。久しぶりっていうか、前行ったのいつだったっけ」
「ずっと前ね。赤ちゃんの頃」
「そうだな。おばあちゃんちの近くだ。香澄は覚えてないだろうけど」
家族旅行には毎年行くものの、なぜか海の近くはいいつも行き先から外されていた。そのこと自体、特に不満ではなかったが、一度訊いてみたことはあった。「去年も今年も山だったし、来年は海?」「山が飽きたなら湖にしようか。温泉でもいいわね。香澄は、できるだけ海はやめた方がいいらしいの」「『らしい』って?」
――海の匂いはあまり好きではなかった。どこか薬っぽい、甘い匂いがして、波打ち際にはおごみの帯ができていた。水は茶色と緑の中間で、足を入れると海藻が絡みついてきた。
両親にも内緒で出かけたのだ。提案したのは謡子だった。今となっては夢の中のように美しい淡い光にくるまれている。四年前のことだ。週末、山を二つ越えたところで催される野外コンサートにどうしても出かけたいと言われて、計画を立てた。二人とも親の許可は出そうになかったし、幸い謡子のお目当ての出演時間は日が高い時間帯だったから、途中退場して急いで戻れば、怪しまれない時間に帰宅できる計算だった。
朝早くに家を出て、昼前には目的の街に辿り着き、停留所で謡子が帰りのバスの時間をメモしているのをよそ目に、香澄はきらきら光る海面を堤防越しに見て歓声を上げた。開場までの間、二人であれこれ買い食いをして、ものを頬張りながら歩いた。それでも余った時間を持て余して、商店街を出たところの小さな水天宮の石段に腰掛けて生暖かい海風を浴びていた。
「ね、まだ時間あるし、海岸降りてみようよ」と香澄は提案した。謡子は「砂の上歩くの面倒くさい、靴に砂が入るし、体力取っておきたいのに」と文句を言って、なかなか立ち上がろうとしなかった。香澄はしつこく食い下がったが、謡子の機嫌が直りそうになかったので、結局ひとりで道路を渡り、堤防に彫り込まれた階段を降りて行った。誰かが置きっ放しにしたバーベキューの残骸を見遣りつつ、靴に砂が入らないように足の裏を置くようにしてそろそろと波打ち際に進んだ。
お世辞にも美しいとは言えない海だった。けれども、香澄の記憶に残っている範囲では、初めての、本物の海だった。靴を脱いで、靴下を中に押し込め、波が届かないところへ置いてから少しだけ海に入った。誰かが海全体を揺すっているみたいに波が次から次へと来るのは、想像していた以上に奇妙だった。けれども、それ以上何も起こらず、匂いも気になるし、すぐに飽きた。振り返ると謡子が道路の向こうで、少し背伸びをしてこちらを睨んでいた。手を振って、靴を履いてからもう一度見ると、彼女はまだこちらを見ていたが、険しい表情は消えており、控えめな微笑みが口もとに浮かんでさえいたのだった。
懐かしき海 6(第一章 5)
小説
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