3.高山印
酔っ払いが派手派手しい音を立ててグラスを落とした。
「おお、久しぶりにやりおったぞ」
ほれ、行け、と店長が背中を小突く。たすくは素早く雑巾を腰に挟み、モップと塵とりを手に取って、カウンターの後ろの隙間を縫って客のところへ駆け付けた。
「兄ちゃん、ごめんな、おっちゃん手が滑ってな」
「いやいや、こいつ、わざとだよ、兄ちゃん、そういう奴なんだから」
豪快に笑い合う酔っ払いたち。たすくはガラスの破片を一か所に集め、雑巾で焼酎臭いテーブルの上を拭う。
「あーあ、貴重な水が」
「水じゃねえよ、酒だよ」
「水割りだろ」
「屁理屈言いやがって、なあ兄ちゃん」
酔っ払いが意味もなく同意を求めてくる。いつものことなので、この半年で身に付けた接客用のにこやかな笑顔を浮かべつつ手を動かす。今のところ愛想のいい店員ということで常連客には通っており、その評判を落としたくはない。
「無駄遣いはいけないだろ、なあ兄ちゃん」
軽く会釈をして、たすくは破片を載せた塵とりを捧げ持ったまま裏へ引っ込む。
「ひっくり返しちまったやつのおかわり、頼むよ兄ちゃん」
背中に投げ付けられた注文に「かしこまりました」と叫び返す。ガラスを包んでごみ箱に捨て、手を洗い、冷蔵庫を開ける。下の段にはずらりと、ミネラルウォーターのペットボトルが並んでいる。ラベルには、緑豊かな山と、蛇のようにのたくった不思議な虹のイラスト。それが、アルプスでもヒマラヤでもない、いかにも典型的な日本のこんもりした山なのが面白い。山頂には花に囲まれた湖のようなものがあって、そこから溢れ出た流れが麓まで続いている。山の上の空に、緑に金の縁取りの装飾的な文字で、大きく「高山印」という文字が書いてあり、これがこのミネラルウォーターの商標である。
さっき出勤の途中でクロジと遭遇して、そのままにしておくわけにもいかず、いったん彼女を連れて家まで引き返した。玄関先に待たせておいて、急いで洗面所でタオルを濡らしてきて、真っ黒に汚れた足の裏を拭くように頼むと、以外にも素直にネコ人間は人間の流儀に従ってくれた。たすくの後ろについて部屋に上がり、人間の家の中を珍しそうに眺め回し、居間の座布団を勧めたのになぜか台所の板の間にぺたりと座り込むと、ここで待っている、と告げた。
そう言えば彼女は、いや、ネコのクロジは、一度だけこの台所に入ってきたことがあった。クロジはいつも慎重で、たすくに触らせもせず、家の裏手のガラス戸から一定の距離を保って庭に座っていた。けれどもあるとき、夕飯の支度の途中で宅配がやってきて、荷物を受け取ってから戻ると、ふわふわの毛に縁どられた深い色の瞳と鉢合わせした。瞬く間にクロジは身を翻し、ガラス戸の隙間から外へ脱出していった。流し台の上に乗せた主食の皿を狙っていたようだが、あのときはよほど腹を空かせていたのだろうか。今も、もしかしたら、空腹なのだろうか。
残念ながら碌なもてなしできそうになかったが、常備してある板チョコレートとビーフジャーキーを差し出すと、クロジは丁寧に礼を言って、早速包装を破ってジャーキーを摘まみ始めた。水分も取った方が良さそうだと思い至って、冷蔵庫から鉱山印の500ミリリットルのペットボトルを一本出して、蓋を緩めてから彼女の前に置いた。クロジはそれを持ち上げ、ラベルの部分を顔に近づいて、ひどく熱心に調べているようだった。
「これは、山だね」
「うん、そうだと思う」
もう時間もぎりぎりだった。たすくは、日付が変わる頃までに戻るとクロジに告げると、慌ただしく家を出た。早足に歩きながら、ネコ人間に日付が変わる云々が通じるものだろうかという疑問も湧いてきたが、これまでの彼女の様子を見るに、ネコ人間といっても随分と人間の常識も知っているようだし、心配なかろうと結論づけた。
酔客にさっきの代わりの水割りを出して、少し手が空いたところで、空になったペットボトルを何となく持ち上げた。ラベルの裏側には、四角い囲いの中に細々とした文字で成分表示だの何なんだのが書いてあり、その上にキャッチフレーズらしきものが添えてあった。「本物の山に育まれた、特別な水」。
本物で特別とは、何とも大仰だ。本物の山。特別な水。
あめをまてども 3
あめをまてども
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