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懐かしき海 25(第二章 10)

10.  静かに夜が明けて、早々に田丸は目を覚ました。手早く身支度をすると、隣室を覗く。やもめたちは朝食をとっている。両側のベッドにきっちり同数だけ腰掛けて、残りは旅行用スーツケースを持ち込んでその上に座っている。かれらは揃って、プラスチ...

幽霊の嘆き

腹痛はいつも二時間で終わるが いつかは永遠に続き それがもとで私は死ぬだろう 喉からもがき出た魂は 痛みをまだ引きずって それから千年は風の中で 痛い痛いと泣くだろう
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懐かしき海 24(第二章 9)

9.  何ら特別ではない平凡な夕暮れがのろのろと這い去った。田丸はカーテンを開けたままにして、薄く張った雲に濾されてやや淡く濁ったその光が部屋に溢れてその後衰えるさまを存分に味わいながら、ベッドに腰掛けていた。定時の報告は何ごともなく、も...

春の正午

菫の香りがこういうものであったと 今日の正午に思い出したが なおも砂は冷たく 靴の中にじわじわと溜まっていく 塔の上で飛行機が火を吹いた どろりとした風に 絡め取られて菫の香りが 燃え尽きるのは明日の正午
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懐かしき海 23(第二章 8)

8.  沖縄に降り立った最初の日、田丸は記憶の中の痩せ細った幻に一日中つき纏われた。 天候はいまひとつだった。つまりは、あの夕暮れは今日の夕暮れではないということだ。やもめたちは相変わらず香澄に張りついている。 主幹も既に到着していた...

どぶの中

毛糸で編み上がった人魚がどぶを遡る 洗剤の泡と油の虹 はじめから見込みのない冒険で 見ているこちらも萎れてしまう だけど所詮はこちらもどぶの中 見込みがないに変わりはない わたしの手足はほつれほどけて 犬かきをする力さえない
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懐かしき海 22(第二章 7)

7.  「終末派」たちの動向については、新しい体制が軌道に乗って以来、ほとんどかれらの意識に上ることはなかった。  連中は確固たる信念を持っていたわけではなく、ただ前主幹に引き摺られるかたちで道を踏み外したに過ぎない、というのがおおかた...

まじないの効果

火の中に塩の粒を投げる レンジフードの裏面に故郷の山があるのだが これで土も焦げて 今年は凶作をみんなして嘆くだろう 私は生活に土を使わない場所に住んでいて 地面はときどきぐらつくけれども 鯨のように豊かだから 故郷の苦し...
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懐かしき海 21(第二章 6)

6.  諍いごとが小波となってかれらの宇宙の表面を走り、わずかに搔き乱した間も、香澄は両親のもとで健やかな成長を続けていた。互いにいがみ合っている間柄であっても、両陣営とも香澄とその家族にだけは火の粉が降り注がないよう細心の注意を払い、援...

具合の良くない体

真夜中に私は 粉と繊維とに分離する 畳表に散らばって もっと具合の良い体の 組み立て方を考える
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